憧憬に霧

忍×あんず


女神だとか、救世主だとか。誰も彼もあのひとのことを飾り立てすぎている。それは自分も同じはずだった、けれど。

「忍くん」

「何でござるか――わっ」

個人練習の休憩中、後ろから呼ばれて振り返ると頬に彼女の指がささった。

「ふふ、引っかかった」

いたずらの成功に満足したのか、歳相応の笑顔でくつくつと肩を震わせている。

「あんず殿は拙者で遊ぶのが本当に好きでござるなぁ……」

残念そうな声色で少しだけ大袈裟にため息を吐くとしたり顔をされた。かえって喜ばせてしまったらしい。


こうしているのを目の前にすると、“皆”の崇拝する「彼女」とはなんだろうか、と考えてしまう。ただの高校生で、可愛いものが好きで、少しだけ頑張りすぎる女の子。それだけなのに。これまでの実績ゆえの期待、そしてプレッシャーにいつか潰されてしまうのではないかと怖くなるのだ。

ただの後輩で、仕事の面では彼女に頼りきりな自分が思うには烏滸がましいことかもしれないけれど。


うわの空になっている間に、先程のいたずらでは飽き足らなかったのか、頬をぐにぐにとこねられていた。

「かわいい」

まだ続くのか、と彼女の顔を見ると、いつもより隈が濃いのが分かってはっとする。

──それで、今日は特に拙者に構ってくるんでござろうか。

以前、忍くんと一緒にいると癒されて疲れも和らぐ、というようなことを話していたような気がする。

それならば、と軽く抵抗していたのをやめ、彼女のしたいようにさせてやることにした。


最初は冷たかったけれど、今では暖かく手を差し伸べてくれる。そんな彼女の助けになりたい、そう思うようになったのはいつ頃からだっただろう。

自分が彼女のためにできることは何だろうか。そう考えた結果が、「彼女にとっての癒しになること」なのだった。もちろん、好きこのんでぬいぐるみとして見られたいわけではない。笑われてしまうかもしれないけれど、本当は一人のアイドル、一人の男として見て欲しい。だから最初のうちは拒んだし、忠告もした。だが――これはきっと、「男として見られない」自分にしか成し得ないことなのだ。

例えば普通の男女間であれば恋愛に結び付けられてしまうことであっても、これくらいなら「ぬいぐるみの名に免じて」許されるはずだ、と思える。自虐めいたことも、時には長所になるものだ。それで彼女の心の拠り所となれるなら喜んで引き受けよう。

それでもやはり顔をしかめる人はいるだろうが、彼女にはさらさらそんな気はないだろうし、自分もそれを弁えた上で応じている。そうやって、曖昧になったボーダーラインの上をそっと綱渡りしていた。

なのに。このひとはあまりにも無垢で、そんなことは何ひとつ分かっていない。


忍くんのほっぺは柔らかいね。そう言う彼女の顏は息のかかるほど近くにあって、その瞳が真っ直ぐに自分を覗き込んでいて。

きっとこれが自分じゃなくて他の誰かなら、彼女もどぎまぎしてこんなことはしようとはしないのだろう。“そういう対象”ではない自分だから受け入れられているのだろう。

──けれど、何だかそれがひどく嫌になってしまった。

胸の奥深くにざらりとしたなにかが這う。きっと、今しかない。……何が?

自分でも無意識のうちに、彼女のもう片方の手を掴んで引き寄せていた。

「あんず殿、そうやってあまりにも無防備でいると……」

「うん」

少しよろめいたものの、彼女は愛くるしい後輩の叛逆の可能性をまるきり疑っていない。そのぽかんとした顔を見ていると、いやに明瞭だった脳内にたちまち霧がかかった。

「どうしたの」

はて、自分は何がしたかったのか。とんと見当もつかなくなり、手を離す。

「……やっぱり何でもないでござる」


ええ、気になるなぁと心底不思議そうでいて、大して気に留めてもいなさそうな彼女を前に、自分自身の行動の理由に首を傾げるのだった。